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キスリング展

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モイズ・キスリング (Moïse Kisling、 1891年 1月22日  -  1953年 4月29日 )は、 エコール・ド・パリ (パリ派)の ポーランド人 の 画家 。 キスリングは、20代後半には画家として成功し、パリ派の陽気で面倒見の良いリーダーだった。「 モンパルナス の帝王」とも呼ばれた。自殺した パスキン 、アルコール中毒の モディリアーニ 、 ユトリロ など破滅型のイメージの強いエコール・ド・パリの画家たちの中では珍しく幸福な生涯を送った画家である。 スイス ・ ジュネーヴ の プティ・パレ美術館 に、世界最大のコレクションがある。(WIKI) アプローチ 庭園美術館 サン=トロペ風景  1917 サン=トロペでの昼寝  1916 カーテンの前の花束  1937 モンパルナスのキキ  1925 ●庭がリニューアルなった 庭園美術館を 訪れました。 キスリングのあざやかな色彩が アール・デコ建築の雰囲気に マッチしているように感じました。 マカロンケーキ 安田侃作品 軽井沢21世紀美術館 を思い出しました!

成巽閣

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成巽閣 (せいそんかく)とは、 文久 3年( 1863年 )に 加賀藩 13代藩主・ 前田斉泰 が母・ 真龍院 (12代斉広夫人)の隠居所として建てた歴史的建造物である。歴史博物館として一般公開されている。 兼六園 に隣接する。(WIKI)  文久3年(1863年)、奥方のために建てられたこの建物は当初、巽御殿と呼ばれました。金沢城から見て巽の方角(東南)にある事、京都の鷹司家が辰巳殿と呼ばれていた事にちなんで、こうした名前がつけられました。  前田家13代齊泰は12代奥方に対して、細やかな心配りに満ちた優しく雅な空間を造りあげています。階下の材には紅い漆を用い・壁は土を使わず紙貼りとしました。その上に金や雲母を用い雲や有職の文様が施されています。さらに障子の腰板には様々な愛らしい絵が描かれていて(蕨(わらび)・土筆(つくし)・蒲公英(たんぽぽ)・水仙・万年青(おもと)・菫(すみれ)・蝶・亀など)御殿を春の色に彩っています。小鳥の絵が描かれたオランダ渡りのギヤマン、「謁見の間」の極彩色の欄間や「群青の間」を代表とする階上の鮮やかな色壁など、豊かな彩色はこの御殿の大きな特色です。(HP) ●群青の間に興味があり訪れました。 御所人形展を開催中です。 群青の間(HP)2f beautiful!(HP) in out

太宰府:観世音寺

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日本最古の梵鐘がある「西日本随一の寺院」 『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみである。境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。 昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。 この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。(太宰府観光協会) ● 激しい雨の中、 太宰府観世音寺に向かいました。 十一面観音立像 吉祥天立像 ●素晴らしい仏像は、 京都から仏師を招いて制作。 冷たい雨が趣をいっそう深めてくれました。

無鄰菴:Murinan

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● 山縣有朋 の別邸、第三の無鄰菴は 京都府 京都市 左京区 、南禅寺のすぐ西側、 琵琶湖疏水 のほとりにある。 南禅寺界隈別荘 の一つ。敷地は三角形の形状で、広さ約3100平方メートル [1] 。現在は 1941年 に寄贈されて京都市が管理している。 その庭園は 1951年 (昭和26年) 6月9日 、国の 名勝 に指定された 。(ウィキ) ● 知人のおすすめもあり、 何度か前を通り過ぎていた 無鄰菴に立ち寄りました。 無鄰菴〜瓢亭〜神宮通 趣のある裏道が続きます。 峯嵐堂deわらびもち!

曼殊院:mansyuin

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●曼殊院(まんしゅ いん)は 京都市 左京区 一乗寺にある 天台宗 の 仏教 寺院 である。 山号 はなし。本尊は 阿弥陀如来 、開基(創立者)は是算(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる 門跡 寺院( 皇族 ・ 貴族 の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、 青蓮院 、 三千院 (梶井門跡)、 妙法院 、 毘沙門堂 門跡 と並び、天台五門跡の1つに数えられる。 国宝 の 黄不動 画像や 曼殊院本古今和歌集 をはじめ、 多くの 文化財 を有する。(WIKI) ●修学院に 曼殊院まで徒歩20分の サインがありましたので猛暑の中、歩き出しました。 この石段が見えるまでずっと上り坂でした。 暑さのピークでしたがなんとかたどりつきました。  枯山水 ●曼殊院の出口まできて、茶室を見ていないことにきずき 引き返しました。 案内の方に誘導されて、ふたたび室内に入りました。 この茶室の位置が不思議でした。 黒い壁はイカスミを混ぜて塗りこめていること、 季節ごとに 窓の障子に映り込む影の色調が変化することなど、 をうかがいました。 (いまは薄緑でしたが秋には紅葉色に) 重要文化財の茶室に座る、 貴重な体験をしました。 茶室:八窓軒 小書院の北側に隣接して建つ 茶室 。大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。平三畳台目、中柱、下座床の席。小堀遠州風の意匠が随所に見られる。東側の壁の連子窓の上に下地窓を重ねる手法は珍しく、遠州好みとされている。天井は東側(躙口側)を化粧屋根裏、西側(床の間側)を平天井とする。この平天井が点前畳の上まで続き、点前座を落ち天井としないのは古い手法である。躙口上の連子窓は虹のような影が生じることから「虹の窓」と呼ばれて名高い。(WIKI)

修学院離宮:Syugakuin Rikyu 2015・08・07

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●修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう)は 京都市 左京区 修学院 の 比叡山 麓にある皇室関連施設。 17世紀 中頃( 1653年 ( 承応 2年) -  1655年 (承応4年))に 後水尾上皇 の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。 桂離宮 ・ 仙洞御所 とならび、王朝文化の 美意識 の到達点を示すものとなっている。 宮内庁 京都事務所が管理している。 敷地は上・中・下の御茶屋のほか、周囲の山林や水田も含 敷地は上・中・下の御茶屋のほか、周囲の山林や水田も含めて54万5千平方メートルに及ぶ。上・中・下の御茶屋の間に広がる、実際に耕作されている水田をも風景に取り入れている。この水田は昭和39年(1964年)に宮内庁が買い上げ、地元農家と契約を結んで耕作させている。上・中・下の御茶屋の間を結ぶ松並木の道は、もとはあぜ道であったが、明治18年(1885年)の中御茶屋併合後、明治天皇の行幸に備えて拡幅整備し、松を植栽したものである。(WIKI) ●運よく修学院離宮も連日で予約が取れました。 猛暑の中、拝観しました。 ● 下離宮 御幸門 花菱紋透かし彫り    寿月観 ● 中離宮 楽只軒・客殿 網干の欄干 ● 上離宮  浴龍池 扁額  後水尾上皇  宸筆 窮邃亭(きゅうすいてい) 隣雲亭(土間) ●季節ごとにめぐる風景は、それぞれ素敵にちがいありません。 春・秋にもおとづれてみたいものです。