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中村芳中展・・・・・光琳を慕う houcyu nakamura

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●数年ぶりに千葉市美術館です。 芳中展はもうすぐ終了、 細見美術館へ巡回なのであわててでかけました。 貼交屏風・短冊作品がとくに素敵でした。 扇面貼交屏風  部分 燕子花 紅牡丹 紫陽花 白梅小禽図屏風 立葵図扇子  方淑  印 蓮に花菖蒲図屏風  方祝  印 桔梗図扇面 中村 芳中 (なかむら ほうちゅう、生年不詳 -  文政 2年( 1819年 )11月)は、 江戸時代 中期から後期の 絵師 。主に 大坂 で活躍。 琳派 に分類される絵師であるが、一般に華麗・装飾的と呼ばれる琳派にあって、素人風な大らかで ユーモア ある表現で近世大坂画壇に独特な存在感をもつ絵師である。 1799年 (寛政11年) 江戸 へ下向。この時交流があった 木村蒹葭堂 から選別を受け、大坂の俳人たちが「中村方中の東行をおくる」という 俳諧摺物 を制作している。その後も度々江戸に訪れたと考えられる。1802年( 享和 2年)江戸で『光琳画譜』( 加藤千蔭 序、 川上不白 跋)を刊行する。この出版は、抱一の『光琳百図』より十数年早い。ただし、その掲載作品は光琳作品を版行したのではなく、あくまで芳中が自身が「光琳風」だと思う画風で描いたものだった。 京都 出身。名は徳哉。号は温知堂、達々、担板漢など。芳中は 字 とされるが、同時代資料でも「鳳沖」「鳳冲」「鳳仲」「鳳中」「方仲」「方冲」「方中」「芳仲」「芳中」と様々である。芳中自身の 落款 ・ 印章 を見ると圧倒的に「芳中」が多く、「鳳沖」から「方中」そして「芳中」へ」改名したと推測される。生年は不明だが、江戸琳派の祖・ 酒井抱一 とほぼ同時代人だと考えられる。史料上の初出は、 1790年 ( 寛政 2年)『浪華郷友録』に絵師として紹介されており、既に一人前の絵師だったことがわかる。 1794年 ( 寛政 6年)の『虚実柳巷方言』では「指頭ホウチウ」と記されており、指に直接 絵の具 を付けて描くなど 筆 以外で絵を描く指頭画を良くしたことがわかり、実作品も残っている。画業の初期は、他に 南画 風の 山水画 も手掛けている。しかし、やがて周囲の 文人 や 俳人 たちの影響で、 尾形光琳 に私淑していったと考えられる。(WIKI)

栄西と建仁寺展

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●ほとんど機会のなかった、 海北友松に(10点ほど)であうことができました。 鋭い気合を感じました! 重文:雲龍図 海北友松筆   右4幅 海北 友松 (かいほう ゆうしょう、 天文 2年( 1533年 ) -  慶長 20年 6月2日 ( 1615年 6月27日 ))は、 安土桃山時代 から 江戸時代 初期にかけての 絵師 。 海北派 の始祖。姓は 源氏 、友松は 字 。 近江 (現在の 滋賀県 )の湖北地区に生まれる。名ははじめ「 友徳 」。「 紹益 」とも。「 如切斎 」「 有景斎 」などと号した。子に同じく絵師の 海北友雪 。 浅井氏 家臣・ 海北綱親 の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の 東福寺 で修行。このときに 狩野派 を学んだらしい。師匠は 狩野元信 とも 狩野永徳 ともいわれているがはっきりしない。 天正 元年( 1573年 )に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、 豊臣秀吉 に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。 その画は 宋元画 、特に 梁楷 の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法( 減筆法 )によって独自の画境を開いた。作品は大画面の 水墨画 が多いが、金碧濃彩の 屏風絵 もある。 八条宮智仁親王 や 亀井茲矩 、もともと東福寺の退耕庵主だった 安国寺恵瓊 と親しかった。また、交流のあった 斎藤利三 ( 明智光秀 の重臣)を謀反人でありながら手厚く葬り(磔にされていた利三の遺体を友松が槍を振って侵入して奪い取ったともいわれる)、後に息子の友雪は、利三の娘である 春日局 から褒賞を受けている。 墓所は 京都府 左京区 浄土寺真如町の 真正極楽寺 (真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。(WIKI) 以前、建仁寺に天井画をみにいったことを思い出しました。 小泉淳作筆 蓮鷺図屏風 狩野 山楽 江戸時代 1618頃 京都:正法永源院   国宝  風神雷神図屏風 俵屋宗達筆 江戸時代・

村井 譲二: 2014静岡個展のお知らせ

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●SONGS 2014年5月18日(日)~5月25日(日) OPEN:11:00~16:30 ギャラリーえざき 〒420-0035 静岡市七間町8-20 毎日江﨑ビル2F ℡:054-255-2231 www.ezakinet.co.jp/gallery/ すこし遠いのですが、 ぜひおたちよりください。 私は、期間中毎日おります!

大田垣蓮月尼展 Otagaki Rengetsu

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●小雨のなか南禅寺下の 野村美術館です。 蓮月展は、直感で見逃してはいけないと思いました。 訪れてみると そこには 余人をもってはかえがたい たおやかな宇宙 がひろがっていました! ●春雨 つれづれと さびしきものの うれしきは 花まつやどの 春雨のころ 蓮月 あまのかるも 【海人の刈藻】 ●すべての作品はジョン・ウォーカー氏と ガブリエレ・ハード博士が集めた 水馬コレクションから選ばれたものです。 「京都で30年以上開かれなかった大田垣蓮月尼展を 開催でき、無上の喜びです」と ウォーカー氏はコメントしています。(パンフより) 大田垣 蓮月 (おおたがき れんげつ、 寛政 3年 1月8日 ( 1791年 2月10日 ) -  明治 8年( 1875年 ) 12月10日 )は、 江戸時代 後期の尼僧・ 歌人 ・ 陶芸家 。俗名は 誠(のぶ) 。菩薩尼、陰徳尼とも称した。 生後10日にして 京都 知恩院 門跡 に勤仕する 大田垣光古 (もとは山崎常右衛門)の養女となった。養父の光古は 因幡国 出身で、誠を引き取った当時は知恩院勤仕といえども不安定な立場にあったが、同年8月には知恩院の 譜代 に任じられ、門跡の 坊官 として世襲が許される身分となった。 太田垣氏 は室町時代に因幡・但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫である。 京都 の生まれ。 実父は 伊賀国 上野 の城代 家老 藤堂良聖 。 生母は誠を出産して後に、 丹波亀山藩 の藩士の妻となった。この生母の結婚が縁で、寛政10年(1798年)頃より 丹波亀山城 にて御殿 奉公 を勤め、10年ほど亀山で暮らした。(WIKI) 蓮月焼 (れんげつやき)は 江戸時代 後期の尼僧、 大田垣蓮月 が自詠の和歌を釘掘りで刻んだ 陶器 。(WIKI) をかさきの さとのねさめに 聞ゆなり きたしらかわの 山ほととぎす In  Okazaki  Village just  awaked by the song